ヘンなタイトルだけど、そうとしか言えないこと。この前ふっと思い出した。
音楽の好みが偏食的なのは、たぶんきっと昔から。
コレが好き!みたいなストライクがけっこう狭い。かわりにハマるとグーっと聴き込みたがる。
大学のころだから、もう四半世紀以上前に、当時の友人が演奏するよと連絡をくれて、シタールの生演奏を聴きに行ったことがあった。
彼はたしか、ラヴィ・シャンカールの孫弟子にあたるはず。直弟子のお師匠さんから(人前で、それもお金を取っての)演奏の許可をもらったと言っていたから、かなり上手かったんだと思う。
なんていう曲だったか、どんなふうだったか憶えていないけど、うっとりと酔うように音楽とその場の空気感をたっぷりと味わったのは憶えている。
もっと聴きたかった。
でも次のチャンスはなかった。
彼は若くして亡くなったから。
インドの伝統のシタール曲は、ある程度の決まりはあるけれど、それ以外は即興なのだと聞いたことがある。
その時限りの音であり、曲なのだ。
仮にあの時演奏された曲の音盤を見つけたとしても、わたしはそれを聴いてあの時の演奏を思い出すことはできないだろう。
それくらい記憶はあやふやになっている。一生懸命思い出そうとしても、浮かぶのはあの時の彼の姿。「音につながる何か」を自分の中に通し、それをシタールにのせて曲として表現していた様子。それだけ。
音は消えるのだ。だから美しいのだ。
わかっているけれど、それは悲しいのだ。かけらでも、すこしでも、思い出としてとどめておきたいのだ。
たぶん、だからわたしはこんなに執拗に文字にして、残したいと願うのだ。
お衣装や演奏曲やそのとき自分が受けたイメージ。
消えて残らない美しいものの名残として、わたしが掴んだほんの少しのことたちを。
自分に使えるツールを使うことで、もしかしたら残せるものがあるかもしれないと思うのだ。
結果的にそれはとても楽しい再体験で、ライブの最後も、記事の書き終わりも、名残を惜しみながら手を止める。
ライブの時は拍手の手を。記事の時はキーボードを叩く手を。
残せるものはわずかだけれど、ないよりはいいんじゃないかと、そう信じている。
あの時あの場で漂い、消えた美しい音楽は、過去の時間にはまだ流れているのだろうか。